Macchiole伝説(1) La Partenza(旅立ち) |
レ・マッキオーレが創立したのは、テヌータ:サン・グイード社(サッシカイア醸造元)が名声を上げ始めた頃の1983年。
今は亡き、エウジェニオ氏がバールの隣に構えた畑が始まりです。
カンティーナの設立は1983年ですが、すぐにワインを販売することはせず、約6年弱は研究のみに費やしました。
「ボルゲリ地域として最適な葡萄品種は何か?」 「ボルゲリワインとは?」
など自問自答を繰り返すエウジェニオ氏の隣には、常にチンツィア夫人がいました。
ファーストヴィンテージは、今では考えられませんが、カベルネ・ソーヴィニヨンとサンジョヴェーゼを使用した『パレオ・ロッソ1989』でした。(1993年にリリース) 商品の品質に絶大な自信をもってスタートしたのでした。 |
Macchiole伝説(2) La Speranza(希望) |
順調にそのクオリティと名声を高めてきたレ・マッキオーレ。
パレオ・ロッソで成功を収めた後、メルロ種100%の「メッソリオ」、シラー種100%の「スクリオ」をそれぞれリリースし、ボルゲリを代表するカンティーナへと成長!
通常、名声が高くなれば収量や生産量を多くして、言わば『儲け』に走るところですが、マッキオーレは違いました。 支持するファンに落胆を与えません。
当時、ボルゲリに進出してくるのは貴族系会社が多く、ボルゲリの地は確実に負荷がかかっていました。
ここで貴族系会社の様に生産量を多くすると、品質が落ちてしまう影響をマッキオーレは見抜いていたのです。 マッキオーレは「焦った増産」という言葉に決別しました。
さて、話は変わってパレオに使う品種について。
元々はカベルネ・ソーヴィニヨン主体でしたが、肥沃なボルゲリの地には強すぎると考えていたマッキオーレ。 何年も時間をかけ、全ての葡萄をカベルネ・フラン種の樹に替えていったのです。
マッキオーレが目指すのは、そう、「カベルネ・フラン100%」のパレオだったのです! |
Macchiole伝説(3) Disperazione(悲しみ) |
ついに2001年ヴィンテージで、「パレオ・ロッソ」がカベルネ・フラン100%に替わりました。
高い志をもって造り上げた「パレオ・ロッソ 2001」!誰もがその完成を待ちわびました。
しかし、そんな中、カンティーナの存続事態を揺るがす悲劇が起こったのです。
2002年、ワイナリー当主であった夫のエウジェニオ氏が急逝しました。 あの希望の塊であった「パレオ・ロッソ 2001」のリリース自体を見届ける事なく、彼は帰らぬ人となってしまったのです。
多くの不動産業者がマッキオーレの土地にオファーを出し、一時「マッキオーレが売られる」という噂まで世界中を駆け巡りました。
そんな混沌とした中、チンツィアさんは毅然とした態度を貫き、エノロゴ(醸造家)ルカ・ダットーマ氏の絶大な協力もあって、カンティーナの存続を決めました。
今でもチンツィアさんは胸を張って語ります。 「より多くの人たちにマッキオーレワインを楽しんでもらいたい」 と。
それが故・エウジェニオ氏の想いでもありました。 このカンティーナがある限り、エウジェニオ氏は常にチンツィアさんの支えになっています。 |
Macchiole伝説(4) Il Futuro(今後) |
マッキオーレは誇りを持っています。
なぜなら、ボルゲリというイタリア屈指の産地の中にいながら、他のほとんどのカンティーナは外部出身者でマーケティング重視である中、カンポルミ家(=マッキオーレ)は生粋のボルゲリ出身。
ボルゲリ地区の酸いも甘いも知っているので、バッド・ヴィンテージになっても耐えるほどの知識は十分に備わっています。
生産量は少なくなりますが、カンティーナがこのレベルであれば『質』が落ちることはないことを改めて感じました。 感動モノです。
また、他の貴族系カンティーナや資本系カンティーナにおいては特定の社長制度を導入していますが、マッキオーレは夫から妻へ、そして、ゆくゆくは息子(エリア君)へ。。。
息子はマッキオーレの継承のため、日夜勉強を重ね、自分以外はこのワイナリーを引き継げない、とばかりに現在も経験を積んでいます。 |
【2005年2月4日】 チンツィアさん初来店 当店もオープン半年目でした。 |
【2008年6月10日】 チンツィアさん再来店 マッキオーレセミナーも同時に開催。 多くの方にご堪能いただきました。 |
【2013年10月12日】 3度目の来店。 長男のエリア君を伴っての来店。 二人のサイン入りボトルが話題に! |
【2017年11月24日】 4度目の来店。 今回は次男のマッティア君。 お母さんに似てる!と評判に。 |
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